「手をのばせば届くのに、どこよりも遠い場所」  そのB


「今日はここを特に洗って」
 その日の夜。風呂場で春奈さんはそう言った。こことは、股の間だった。
「‥‥分かりました」
 俺は春奈さんの前でひざまずき、ゆっくりとスポンジをそこに這わせていった。
「私を、嫌な女だと思ってるでしょ?」
 覗き込むように、春奈さんは言う。
「思ってません」
 俺はきっぱりとそう言った。
「嘘よ。何で仇の男なんかと寝るんだって思ってるはずよ」
「もし俺があなたと同じ立場だったら、きっとあなたと同じ事をしていたと思います。だから、嫌なんて思いません」
 股の間を重点的に洗い、太股の内側、お腹の辺りも丁寧に洗った。春奈さんの唾を飲み込む音が聞こえた。そのせいか、お腹が僅かに上下に揺れた。
 静かな風呂場で、俺と春奈さんはそれ以上言葉を交わさず、俺は黙って春奈さんの体を洗い、春奈さんは俺に身を任せていた。
 全身を洗い終え、シャワーをかける。無数の玉雫が春奈さんの体に吸い付いては流れ、落ちていく。湯煙が微かに触れては消えていく。なだらかな曲線は、昨日と何ら変わり無い。女として絶頂にあるその美しい体は、あの組長が触れたとは思えなかった。
 シャワーの威力を弱め、髪の毛を濡らしていく。雫を帯びた髪の毛が肩や背中に張りつく。俺は高級シャンプーを手に出し、その髪の毛につける。爪を立てないように気をつけながら、ゆっくりと洗う。シャンプーの心地好い香りが沸き立つ。
 髪の毛を洗い、最後に顔を洗う。春奈さんは化粧をあまりしない。しかし、今日は組長と会った為だろう、僅かにファンデーションと口紅が残っていた。俺は手に湯をつけて、そのファンデーションと口紅を綺麗に流していった。春奈さんは目を閉じている。俺は眉毛やまつ毛もにもゆっくりと湯をつける。
「キスしてもいいのよ」
 湯に濡れた目で、春奈さんは言う。細い指が、艶かしく俺の肩に触れる。
「いいです。今はまだ‥‥」
 俺は無理に視線を外した。


「俺も、小さい頃の話をしていいですか?」
 木漏れ日に溢れる部屋の中で、俺は隣にいる春奈さんに声をかける。昨日は一緒にベッドで眠った。どちらが誘ったわけでもなく、ただ自然とそうなった。肉体関係は無かった。掟だから、ではなく、今はそうしてはいけないと思ったからだった。
「いいわよ。私も聞きたい」
 少し乱れた髪の毛を戻しながら、春奈さんは答える。とても子供っぽいパジャマを着ていた。
「十三の時に母が家から出ていきました。原因は父の不倫と暴力。それから父と二人で暮らしていたけれど、父は俺を全然育てる気が無くて、いつも一人でご飯を食べてました」
「‥‥」
「十六の時に万引きと暴行で少年院に行きました。楽しくもつまらなくもない、退屈な暮らしだったけけれど、そこだと仲間みたいのがあって、その輪の中に入っていると少し安心しました。おい、影一って、そう呼ばれる事が嬉しかった」
 何日か前に春奈さんが自分の過去を話したように、俺もただ単純に過去の話を聞いてもらいたかった。そうして、少しだけ、安心したい。ただ頷いてくれるだけで、俺は癒されるのだから。俺という存在が記憶として残るだけで、嬉しいのだから。
「十八の時に、家を出ました。出る時、父をこれでもかというくらいに殴りました。父の顔も真っ赤だったけれど、俺の手も真っ赤だった。それが父の血だったのか、俺の手の血だったのか、それはもう覚えてないけれど、けど、その時父は俺にはっきりこう言ったんです」
「何て言ったの?」
「お前を、愛してはやれない、と」
 この事を話したのは、この人が初めてだった。ずっと、この事だけ死ぬまで言わないと決めていた。なのに、この人にだったら、何もかも曝け出していいような気がした。
「可哀相。お父さんにまでそんな事言われて」
「‥‥」
 あなたに愛してもらいたい。そう言いたかった。でも、言えなかった。掟を破るからでもなく、今の関係が崩れるからでもなかった。
 そこまで話すと、俺は体全体がひどく疲れている事に気づいた。長話、というほどでもなかったはずだ。でも、激しい運動をした後のようにクタクタだった。
「疲れたでしょう。コーヒー入れるから待ってて」
 俺の様子に気づいたのか、春奈さんはゆっくりとベッドから起き上がり、台所に足を向けた。


 今日は何故か、山下さんは来なかった。だから、春奈さんと二人で、ゆっくりと流れていく時間の中で、何をするでもなく過ごした。
 本を読んだり、談笑したり、ベッドに寝そべって昼寝をしたりした。お腹が空くと、二人でコンビニに行き、弁当やおにぎりを買った。お酒は飲まないんですか、と訊ねたら裸で踊っちゃうから、と春奈さんはおどけてみせた。帰った後、おにぎりをほおばり、弁当を開け、午後のニュースを見た。
 夜も何らかわりばえのしない生活だった。一緒に風呂に入り、春奈さんの体を隅から隅まで洗い、一緒に眠った。
 日々は、今を思うと長く感じるのに、過去を思うと短く感じるものだ。あと一週間もしないうちに、俺と春奈さんはもう出会う事のない関係になる。なのに、まだ時間はあると思って何もしない。本当は何もしないわけじゃない。何も出来ないのだ。
 この俺に、一体何が出来よう。逃げる事など、きっと出来ない。きっと血まなこになって探し、やがて見つけるだろう。ならば、一緒に死のうか。でも、それでいいのだろうか。俺はまだ死にたくない。あの人とならば、きっと死ぬ事さえ恐くないと思うが、死んだら永遠の愛が実るなんて嘘だ。何もかも忘れるだけ、思い出す事も無く、ただ消えるだけ。俺はそんなの嫌だ。
「変な事、考えなくていいのよ。私はこれでいいと思っているから」
 夜、俺の隣で、春奈さんは小さく呟く。俺は春奈さんの頬を触りながら、
「そうですか‥‥」
 と答えるだけだった。
 でも、俺はそれは嘘だと思った。組長と会ったあの日の夜、春奈さんが見せた顔。俺はあの時の顔を、俺は決して忘れない。あれは諦めの顔だ。仕方ない、と自分に強く言い聞かせている顔だ。あれでいいはずがない。諦めて、それで生きていくなんて、誰も望まない。少なくとも、俺は絶対に認めない。
「必ず、あなたを幸せにしてみせる」
 俺は春奈さんにそう言った。その時、既に春奈さんは眠っていた。俺は春奈さんを抱き締めながら眠った。決して離さない。その決意として。


 次の日は、山下さんが来た。山下さんはどこか切羽詰まったような顔をしていた。
「昨日はちょっと用事が来れなかったんだ。すまない。どうだ、調子は」
「とてもいいです」
「そうか‥‥それは良かった」
 そこまで言うと、山下さんはまたいつものように部屋に入る事無く、金だけを渡して階段を降りていってしまった。
 山下さんの姿を消えるのを確認すると、俺は急いで部屋に戻った。
 部屋では春奈さんがコーヒーを飲んでいた。その隣には大きめのアタッシュケースが置いてあった。
「用意できましたか?」
「ええっ、いつでもいいわ」
 俺はサイフと車の鍵をポケットに入れると、春奈さんのアタッシュケースを持った。
 俺は決めた。この人と逃げる。逃げ切って、二人だけで暮らす。ずっと逃亡生活を送る事になるだろう。でも、それで構わない。それで、この人が幸福になれるなら、それでいい。
 春奈さんにその事を伝えると、最初は戸惑っていたが、俺の固い意志に心を動かされたのか、行きましょうと答えてくれた。その時、春奈さんは今までないくらいに可愛らしく笑ってくれた。
 この人は、俺を必要としてくれる。この人ならば、俺を愛してくれる。父も母も俺を愛してくれなかった。だけど、この人ならば、きっと愛してくれる。
 俺の心は、それでいっぱいだった。


 マンションの駐車場に、車が止めてある。組長が春奈さんの為に買ってあげたスポーツカーだ。真っ赤で、新品同様のように綺麗だった。俺は春奈さんの手を強く握り締め、車の所に向かった。
「すぐに出すから、助手席に座っててください」
「うん」
 春奈さんは何度も頷いて、助手席に乗り込んだ。
 俺は車の後ろに周り、トランクを開けた。アタッシュケースを中に入れる為だ。春奈さんのアタッシュケースは相当重い。服以外にもたくさん入っているのだろう。俺は腹に力を入れて、アタッシュケースを持ち上げた。
「!」
 その時、腰の辺りでピリッとした痛みが走った。口の中が火がついたように熱くなった。
目の前がスローモーションになる。俺は全身を覆う痺れに懸命に耐えながら、後ろを振り返った。スタンガンを持った男が立っていた。見た事のある顔だった。
 倒れる時、車の中を見た。助手席にいる春奈さんがこっちを見ていた。組長が来た時に見た、あの目をしていた。そして、その目から涙が零れていた。俺は春奈さんに手を伸ばそうとした。また、痛みが走り抜けた。そして、俺は気を失った。


 春奈は助手席に座って、煙草を吸っている。その様子は妖艶な色っぽさも無く、どこか殺伐としていた。
「‥‥」
 運転席のドアが開いて、山下が入ってきた。手には車のキーが握られている。
「どこに行くの?」
 春奈は山下の方を見ずに訊ねた。
「組長の所だ。影一の処罰を考える。あいつは今、トランクの中で気絶してる」
 山下はゆっくりとキーを差し込み、エンジンをかけた。低いエンジン音が響いた。
「殺さないでね。あの子、私を愛してくれたけど、関係は持たなかったから」
「分かった。そう組長に伝えておく」
「ありがとう」
 春奈は相変わらず山下の方を見ずに、言い放った。車が出発した。


 私は今、は影一の事を考えている。
 あなたに謝りたいと思っている。騙して、こめんなさい、と。昨日の夜、あなたの言った幸せにしてみせる、という言葉。あれを私はちゃんと聞いていた。ちゃんと聞いていたのに、聞いていないふりをしていた。部屋の中に取り付けられた無数の盗聴器と隠しカメラが恐くて、何も出来なかった。
 でも、彼に言った事に嘘は無い。自分は確かに順一郎の事が嫌いだし、今の生活を幸福などとは思っていない。順一郎は何もかも知っている。私が自分の事嫌いだという事も。だから、彼は私を殺さない。あの人は復讐をしている。自分のシマを荒らした男の女を自分の物にする事で、死者に復讐をしている。
「‥‥」
 今日の朝、一緒に逃げようと言った時、私はとても嬉しかった。今まで数えきれない程の男が“掟”と称して、自分の所にやってきた。体だけを求める者、何もしない者、そんな者ばかりだった。でも、あなたは違った。私を抱こうともしないで、それでいて一緒に逃げようと言ってくれた。
 あなたとなら、私は本当に逃げたかった。でも、全てが筒抜けだった。だから、捕まる事は目に見えていた。私はそれが恐くて、何も言えなかった。
 私は何て馬鹿な女なのだろう。分かっていて、それでいて救えない。盗聴器や隠しカメラが仕掛けてあった事も言えず、私も離れたくないという思いさえも言えなかった。
 言えたのに。ほんの少しでも勇気があれば、言えたのに。
 いつか言おう。絶対に、この思いを伝えよう。それまで、決してあなたを殺させない。あなたが死んだら、私も死んでやろう。舌を噛んで、順一郎の前で死んでやろう。彼は笑うかもしれない。でも、いい。私も、影一と一緒になれると思って笑うから。
 もし、二人共生きていられたら、きっといつか一緒になろう。
 流れていく景色を眺めながら、私はさっき流した涙の跡を手で拭った。
                                                               終わり


あとがき
長いタイトルの作品が書きたい! そんなアホな考えから浮かんだ作品です。ヤクザ物は別に好んで書く事は無いんですが、なんかちょうどその時頭に浮かんだのがこの話だったんです。おねーさんキャラというのも好きですな。
‥‥あとはそんなに強い思いは無かったりします。こんなの経験したくないしね。


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